お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第14回】お好み焼き お多福
西本幸子さん│昭和43年(1968年)創業

取材日:2016年11月16日

小学校3年生の長女が亡くなった時、店をやめようと思った。

子どもの頃、広島市内に住んでいました。広島商業高校では、今年亡くなられた元広島カープの山本一義さんと同級生でした。バレーボールの部活が終わって、新天地の屋台店で大好きなお好み焼をよく食べて帰りました。吉田町は結婚して住むようになったんですが、妊娠してつわりがひどく、お好み焼が食べたくて仕方がなかった。その頃近所には、お婆さんがやっているお好み焼屋さんが一軒ありましたが、思っているものと違い、だからと言って広島に食べに行くことも出来ませんでした。そういうこともあってか、田圃だったこの場所がちょうど売りに出されていてすぐに購入し、しばらくしてお好み焼をやるようになりました。その時子供は5歳と3歳の娘二人いました。それが昭和43年、29歳の時で、開店までは家族で広島までお好み焼の食べ歩きをしました。友達が宇品で食堂兼お好み焼をやっていて、いろんなことを教えてもらいました。店を初めて4年経った頃、小学校3年生の長女が病気で亡くなりました。優しい子でした。本当に悲しく、無気力になり、店も続けることができなくてしばらく休んでいましたが、店を続けるよう多くの要望を貰いました。店は亡くなった子の面影がいっぱいなので、思い出さないように全面改装をして再開しました。お客さんが親切に慰めてくれるのですが、そのたびに涙が出てしんどかったです。その後三女も生まれ、その子のおむつを替えてもらったりお世話になりました。皆さんに支えられ、励ましてくれたお客さんのお蔭です。

次女 川村美香さん

次女が子育てをしながら手伝ってくれました。

主人は勤めていましたから店の手伝いは出来ませんが、人と話しをするのが好きで、仕事から帰ってお客さんのお相手をしながらお酒を飲んでいました。昔は夜の12時ごろまで店を開けていたんですよ。その夫も12年前に亡くなりました。結婚して一緒に住んでいた次女(川村美香)が、子育てをしながらいつも手伝ってくれていました。周りにお好み焼屋さんもなくて、本当に忙しかったですよ。今は近くに転居して勤めの休みの時だけ手伝ってくれていますが、材料の買い物と後片付けは毎日してくれています。自宅には歯科衛生士の三女(西本可奈)夫婦と一緒に暮らしています。今年1月、娘や孫、そしてひ孫たちで喜寿(77歳)の祝いをしてくれました。その時は私にはまったく知らされずサプライズでした。

元就焼

再来年創業50年になります。娘が引き継いでくれるかどうか・・・。

ここは毛利元就公の地元ですので、元就の好物だった餅を入れ、仕上げは毛利の家紋をソースでデザインした元就焼をメニューに入れています。県外からもその元就焼を求めて訪ねて来られます。歴女というんですか、歴史の好きな女性も多いですね。定休日は毎週木曜日に決めていたのですが、ある時、車いすの女性が来られて、仕事の関係で木曜日にしか来ることができないと言われ、第2と第4の木曜日は店を開けることにしました。立ち仕事のため、去年、半月板を手術したのですが、今度はもう片一方の足も具合が悪くなり、その手術もしなければならないのですが、店を休むとお客さんに迷惑をかけるので悩んでいます。店は自分のものだけでなくお客さんのものでもありますからね。再来年、店を初めて50年になりますので、そこまではやらなければいけません。その先は身体と相談しながらです。次女の娘が引き継いでくれればいいのですが・・・。娘次第で今は思案中ということです。
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