お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第1回】みっちゃん総本店
井畝満夫さん│昭和25年(1950年)創業

取材日:2015年11月13日

食べるためにお好み焼の屋台を始める

子供のころ満州の新京で、親父(井畝井三男 いせいさお)は「美笠屋」というお菓子屋をやっていまして、戦後広島へ引き揚げて来ました。広島で親父は大工仕事をしており、私は平和大通りの道路工事の日雇いをやっていました。その頃の私たち子供達は食べ盛りで、食べるために今のへんくつ屋の前身の尾木さんからお好み焼の屋台をやろうと誘われ、中央通りあたりで「美笠屋」という名の屋台を開業しました。昭和25年頃です。
親父が屋台を開き、道路工事の仕事が終わって、夕方から手伝っていました。二十歳前で遊びたい盛りでしたが、明け方の4時~5時ごろまで屋台を開け、お客さんは主に盛り場のホステスさんでした。だから翌日は眠くて、土木作業の合間に寝ていました。いい加減なものですね、あのころは。「美笠屋」という名が屋台名に馴染めないのか売上も悪く、昭和28年に「みっちゃん」の名前に変えてそれから繁盛しました。自分の愛称なんですが、親しみがあったのですね。友人知人からすぐ店を見つけてもらえました。それから「○○ちゃん」という名前が一気に増えました。その後昭和30年に新天地の公共広場に移動しました。その時50軒ほどの屋台が密集していました。当時お好み焼は麺が入ってなく野菜だけで、自分で食べる賄いとしてお好み焼と焼そばを皿に入れて食べていましたが、それを一緒に重ねるとお客さんも別々に注文することもなく安くつくし、お腹もいっぱいになる。それがそば入りの誕生になり、人気のお好み焼になりました。

みっちゃん総本店 創業当時


みっちゃんこと初代 井畝 満夫 さん

屋台から広島駅ビルへ移転し初めての固定店舗に。死ぬほど忙しかった。

昭和40年、広島市の条例で屋台は立ち退きを強いられ、また広島駅が商業施設を伴った民衆駅に変わりその時駅ビルから誘われ、新天地の屋台はお好み村と駅ビルに分かれました。自分は、麗ちゃん、よっちゃん、紀伊國屋さんなどを率いて駅ビルに入ることにし、初めて固定店舗として出店しました。親父は病弱であまり仕事をしていなく、その頃は自分が店の切り盛りをしていました。「みっちゃん」という店名が、少し軽すぎたかなと後悔しており、何度も飲食店らしい名前に変えようと思っていました。ちょうどこの駅ビルの出店を機会に思い切って変更しようと思ったんですができませんでしたね。今思えば変えなくてよかったと思っています。店舗は抽選の結果真ん中の6坪ほどの一番小さいスペースでしたが、忙しくて忙しくて毎日長蛇の列。皆さんが興味本位で駅ビルを見学に来られるのです。ほんと、死ぬかと思いました。新天地の時の夜中の商売が今度は昼でお酒とは全く関係のない客層で、無心にお好み焼を焼いていました。駅ビルの特性からか一見のお客さんが多かったですね。


テナントから路面店舗に。それは予定外だった。

昭和43年に駅ビルから八丁堀へ路面店として移転しました。実は進んで八丁堀に移ったのではなく、ある意味だまされたようなものでした。駅ビルの店の隣が広い焼肉の店で、退去すると聞いたのでそこに移動しようと決め、自分の店はお好み村にいた人に譲ることにしました。ところがその焼肉店が突然撤退を取り止め行くところがなくなりました。あのときは本当に困りました。八丁堀への出店は計画的ではなくはじき出されたようなものでした。もし焼肉の店を譲り受けていたならば、今でも駅ビルにいたかもしれません、とにかく繁盛していたので。結果として固定のお客様の店になりました。それからその八丁堀の店が再開発で移転しなければならなくなり、昭和62年、50m先の今の場所に移りました。
あの屋台のころを考えると、広島のお好み焼が今のように全国に知られるようになるとは夢にも思いませんでしたね。しかしこれまでの人生、苦労と思ったことは一度もありません。自分はなるようになると思っていましたから。本当に苦労をかけたのはうちの家内の方です。今があるのは家内のおかげです。

現在のみっちゃん総本店(八丁堀店)



(取材日:2022年4月27日)
17歳でヘラを握り、八丁堀・駅ビルで店長として勤務したのち、創業70周年を機に二代目 井畝 満夫を襲名しました。初代が創り上げたみっちゃんの味と技を引継ぎ、若手の指導育成に務めています。井畝 満夫の店「みっちゃん総本店」100周年を目指し、広島の産業であるお好み焼文化を盛り上げていきます。

二代目 井畝 満夫さん



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