お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第16回】広島焼 松尾
松尾明宏さん│昭和52年(1977年)創業

取材日:2017年03月28日

冷凍お好み焼を初めて21年。今では店内で食べられるより多い。


この団地も40~50年経ちました。一人暮らしの年配の方が多くなり、最近では安いファーストフードもあって、店に来られるお客さんも減りましたね。平成9年、納入業者の方から冷凍お好み焼があることを教えてもらい、マイナス40度の凍結庫を購入して始めました。送ったお客さんから口コミで広がり、今では店のお好み焼より冷凍の方が多くなりました。この店で、夫婦二人で焼いているので冷凍は一日30枚が限度ですね。お客さんに申し訳ないのですが、予約が多いときやお中元お歳暮時期は夜の店は閉めることもあります。東日本にお送りすることが多いんですよ。東日本大震災の時に流通が遮断され、何とか美味しいお好み焼を震災に遭われた人に食べてもらいたいという思いで、その時を機会に真空パックにしました。嵩張らず一度に多く送ることが出来き、賞味期限も延びて長期保存が出来ますので食べてもらい易くなりました。





真空パックされた冷凍お好み焼


サラリーマンが合わず、母とお好み焼を始める。

東京の大学を卒業後勤めをしていたのですが、サラリーマンが合わず1~2年で辞めました。昭和52年、両親がこの五月が丘に家を建てることになり、団地にお好み焼店がないのでやらないかと父に言われ、帰ってきて母と一緒に実家で始めました。学生時代、飲食関係のアルバイトをしていたので抵抗はなかったですね。一から素人で始めましたが、問屋さんにもいろいろ教えてもらい自分でも研究しました。昭和58年に結婚し二人の子どもが生まれ、下の子が幼稚園に入るようになって妻(多恵)も手伝うようになり、それから3人でやっていました。平成8年、実家近くの今の場所に引っ越してきて、その時から妻と二人でするようになりました。その頃はこの団地も各家庭に小さい子が2~3人いて忙しく、特に土日は外で待ってもらうほどでした。一日100枚以上は焼いていましたね。だから子どもの面倒は見ることは出来ずほったらかしでした。参観日も行けず可哀そうなことをしました。運動会の時は妻が最後のリレーだけをちょっと見に行っていましたね。そのころはメニューに肉などの鉄板焼もあって、夜の8時過ぎまで営業していましたが、狂牛病がきっかけで焼肉はやめました。それからはお好み焼だけです。              奥さんの多恵さん














                                奥のテーブル席



鉄板は25ミリ、キャベツは手切り、麺の重量はすべて量る。

実家の店の時の鉄板は15ミリぐらいでしたが、ここに引っ越してきたときに、じっくりと焼きたいので市内のステーキハウス並みの25ミリにやり替えました。知り合いの広島の鋳造メーカーに頼んで作ってもらったんです。ものすごい重量で、13人で設置してもらいました。火を入れて焼けるようになるまでは1時間はかかります。店名の広島焼は、インターネットで県外の人にも、「広島のお好み焼」とひと言で分かってもらえると思ってつけました。焼き方は、昔からのやり方で、麺を下にしてその上にキャベツをのせています。意識していることは、キャベツはスライサーを使わず、切れ味のいい包丁で手切りをすること。それでキャベツの繊維は壊れません。切ったキャベツはさっと水にさらしあく抜きをするのでサクサクした食感で美味しく食べていただけます。キャベツを如何に美味しく焼いてあげるかがお好み焼ですから。そして麺の量は袋に入っていても微妙に違うので手間でも必ず測っています。適量は、中華麺は150g、うどんは219gです。麺の量が少しでも違うと出来上がりのボリューム感に差が出て、少ないのはお客様に気の毒ですからね。これからも研究して、美味しい「広島焼」を提供していきたいですね。















厚さ25ミリの特注鉄板




必ず量る麺の量                     豚肉も小さく切って使用
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