お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第2回】さざんか
三宅花子さん│昭和32年(1957年)創業

取材日:2015年12月24日
最初は「三々賀」という果物店から始める。

広島に原爆が落ちた時は郊外の疎開先にいて助かりましたが、大やけどを負って避難する人たちを見た時はまさに生き地獄でした。私は8歳でした。生まれた翌年父を、そして12歳の時に母を病気で亡くし、「親の愛」は記憶にありません。母のいとこの三々賀(さざんか)シズカさんに親代わりとして育ててもらい、そのおばさんと昭和29年(1954年)、今の場所で果物店「三々賀」を始めました。しかし店の名前を読んではもらえず、ひらかなの「さざんか」を店名にしました。漢字では難しかったのですね。


19歳で結婚。その人は好きでも嫌いでもなかった。

昭和30年、おばさんの次女の結婚式の時に紹介された人とその翌年結婚しました。私は19歳、広島金座街の鉄橋楼(割烹)に勤めていた旦那は25歳でした。大切に育ててくれたおばさんに心配は掛けられなかったので結婚しましたが、もし両親がいたら結婚はもっと先だったと思います。開店から3年後の昭和32年(1957年)、鉄板1枚あれば女手だけでもできるというのでお好み焼に変更しました。その当時お好み焼は、食べたことがあるが近所にお店はなく、見よう見まねの我流で開店、作り方がわからず苦労の毎日で、その頃の燃料はもちろん練炭でした。その当時は野菜入りだけでしたが、いつごろからか麺が入るようになりました。それからしばらくして店は大繁盛、今1日1kg使うもやしが当時8kgも使うほどでした。キャベツはその数倍使っていましたが。

店内に見える歴史とこだわり




平成3年旦那がなくなりうつ病を発症する。

昭和42年(1967年)、おばさんから店を譲り受けることになり、旦那も鉄橋楼を止め夫婦で一緒に店をやりました。旦那はうどん、すしで私はお好み焼。被爆者の旦那は身体が弱くいろいろな病院に入退院し、私は気が張りづめで病気になることができず、その中で二人の息子を育てることは大変で本当に苦労しました。浮気のひとつやふたつしてもらってもいいので、元気な旦那がうらやましかった。お好み焼は一家の家計を支えました。その旦那も平成3年(1991年)60歳で亡くなり、その頃更年期も手伝いうつ病を発症しました。3年間でしたがその間も店だけは開いていました。気分が落ち込み店の奥で包丁を手首にあてたこともありました。そんなどん底から救ってくれたのは常連のお客さんで、腫れたまぶたに気付き、「泣いちゃいけんよ」とよく励まされた。面白いもので長男の孫ができて、生活に癒しと張り合いができたのかコロッとうつ病は治りました。


三宅花子さん


お客さんにかわいがってもらっているので、今が一番幸せ。

二代三代でお好み焼を続けているお店はあるでしょうが、一代で58年も続けている店はそうそうないと思います。鉄板は当時のまま、ヘラも角が丸くなっている当時のままのものを使っています。神様というのはよくしたもので、いつまでも苦労ばかりでない。最近ではテレビ番組やインターネットで取り上げられたり、雑誌に載せてもらったりで、全国からわざわざ来てくれたお客さんと話すのが一番楽しい。また外国人の方も、「親の家に帰ったようだ」と言ってくれます。単身赴任だった方が再度来られると『お帰りなさい』と言っています。この前、高校の時よく食べてくれた方が九州から50年ぶりに来られてびっくりしました。「味は以前のままだ」と言ってくれて、食べた後5枚もお持ち帰りしてもらいました。本当にお客さんにかわいがってもらっています。みんなから『70年まで続けて』って言われます。だから今が一番幸せ。これからも当店自慢の“心で調理”です。

さざんか
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