お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第20回】ひろしちゃん
日山正子さん│昭和41年(1966年)創業

取材日:2017年11月28日

大阪の食堂で働き、そこで主人と出会った。

実家は広島県三次の八次(やつぎ)で、大阪に出て働きたかった。昭和30年、20歳のころ紹介してもらった勤め先が東淀川(現淀川区新北野)にある北野高校の食堂だった。ところがそこは親戚の人がやっていたことがわかって、ものすごく喜ばれ、京都の嵐山や造幣局の桜などいろんな所へ連れて行ってもらった。北野高校は、優秀で京都大学や大阪大学、東京大学へも進学する高校で、いい子ばっかりだった。食堂は全校の生徒と先生も食べに来る広い定食などの食堂だったが、うどんが一番多く出ていた。
食堂の経営者は中央市場で鰹節の卸しもやっていて、そこで働いていた主人と出会って結婚をした。主人も偶然にも三次の出身だった。昭和36年に長男博志が生まれた。


8台ある駐車場



最初は、テーブル3台でお好み焼を始める。

大阪で10年ほどたったころ、広島の親戚から喫茶店を出してくれないかとその食堂に依頼があり、昭和40年、「風車」という喫茶店を開業した。主人はその風車のマネージャーのような仕事をすることになり家族で広島へ帰ってきた。私はすることがなかったので、お好み焼でもしようかと思ってここで店を開いた。それまで、お好み焼はあまり知らなかったが、近所にもお好み焼店があり、女手でやることを考えると、お好み焼しか考えられなかった。
最初はこの場所の隣で、鉄板のあるテーブル3台で始めた。そのテーブルの前でお客さんに焼いてあげて食べてもらっていた。お好み焼は広島のお好み焼でもなければ大阪のお好み焼でもない、私の考えたお好み焼だった。ボールにキャベツやもやしの野菜をいれ、メリケン粉をちょっとかけて、少しだけ混ぜて焼く。そして中華麺を横で焼き乗せる。簡単でしょ。
ただ大阪の食堂でてんぷらを揚げるとき、板場さんがメリケン粉の中にチョチョッとあるものを入れていた。それを見ていたので、お好み焼にも入れたらおいしいかもと思って大阪へ電話をして送ってもらった。メリケン粉だけでは美味しゅうないが、ふわっふわっとする感触でコロッと違った。それが店の特徴になった。その入れるものは秘密。ここらでは売っていない。
その頃のお好みソースは、最初一升瓶で、途中から甕のようなもので栓を抜いて出していたが、よそ見をするとよくこぼれた。店の名前は、息子の名前の博志から「ひろしちゃん」にした。






お好み焼を焼いて50年。調理師の息子がいるから、お好み焼以外のメニューも多い。

息子は、高校を卒業して大阪の料理専門学校に行かせて、そのあとレストランで勤めていたが、主人の体調が悪くなって、大阪から息子を呼び戻した。 その頃、隣が店をやめたので今の場所に移った。私一人でやっていたので、お好み焼だけだったが、息子は調理もできるしレストランで仕事もしていたので、お客さんからの要望もあり、お好み焼き以外の丼物やラーメン、昼食の定食も出すようになった。息子がいるからできる。しかしお好み焼のほうが断然多い。今も現役でお好み焼を焼いている。焼けるよぉねぇ、お好み焼ぐらい。 昔は高校生や高校の先生もよく来てくれていたが今は少ない。しかし遠くのほうから店を訪ねてきてくれる。月日が経つのは早い。30歳で始めたお好み焼だが、80歳になってしもうた。あっという間よ。これからも体が動きゃぁ、やっていく。やらにゃぁしょうがない。三次には、墓はあるが家を売ってしまって今は帰ることはない。

 
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