お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第5回】ふじや
藤井由利子さん│昭和38年(1963年)創業

取材日:2016年03月16日

藤井由利子さん

無口な母が見様見真似で始めたお好み焼店。毎日手伝っていました。

親戚の料亭に、後家さんだった母は勤めており、料亭の近所のお好み焼屋さんが店を辞めたんです。料亭のご主人の勧めもあって、その店の設備機材や鉄板を譲り受け、食べていくために母はお好み焼を始めました。出店資金も出してもらったと思います。昭和38年、母のハルヱが46歳、私が中学2年の時で、今年53年目になります。見様見真似で、それでなくても母は無口でしたので大変だったと思います。私は毎日学校から帰ると皿洗いなど手伝いに店に入り、しゃべるのが私の役割でした。夏休みも毎日手伝っていました。当時かき氷やところてん、うどん、カレーライス、焼き飯、おでんもメニューに入れていまして、おでんは今もやっています。母はとにかく手作りで、氷ぜんざいの餡子も小豆から時間をかけて作り、うどんの出汁も丁寧に取っていましたね。
昔この近くに工事現場があって、その人たちの賄いもやっていってとにかく忙しかった。とにかく忙しいのが嫌で仕方なかったですね。手作りといえば、このお好みソースを最後の一滴まで出す器具も親戚のおじさんが作ってくれました。世界にひとつだけの貴重なものです。

創業以来53年間、定休日以外で休んだことはない。

旅行が好きで、母にわがままを言っては、よく海外旅行に行かせてもらいました。母は店があったので一泊程度の国内旅行はしていたとは思いますが、一緒に海外旅行に行ったことはありません。私は高校卒業後3年程勤めに出ましたが、21歳で店を継ぐことにしました。ここに永久就職したわけです。母は10年前の88歳までお好み焼を焼いていました。その母も99歳、白寿です。昨年までキャベツを切っていましたが今病院に入院しています。私は母の味を忠実に守り、母が師匠です。母にはきつくあたったりしたこともありますが、漫才の掛け合いのようで、二人三脚でこれまで来ました。母と私の二人ともがダウンしたことがなく、53年間定休日以外で店を閉めたことはありません。どちらかが出ていました。今は定休日の木曜日でも時間があれば店に出ていることもあるんです。

ひとりで店をやっているので、『籠の鳥』です。

とにかく忙しくて、今は私一人で店をやり繰りしています。だから『籠の鳥』です。昔は海外旅行など気ままにしていましたがそれができず、そのことを以前取材来られた担当の人にポロッを漏らすと、後日メールで素敵な言葉をいただきました。それを色紙にして大切にしています。この言葉が大好きです。店の休日の時は、好きなオシャレをしてお店を廻ったりしています。このエプロンもサンローランなんですよ。街を歩くと本当に元気を貰えます。この前電車の中で外国人の方に声をかけお好み焼の話をするとすぐ来てくれました。英語の名刺も持っているんですよ。

「ふじや」

お客さんから元気をもらっているので、できる限りお好み焼店を続けたい。

お馴染のお客さんと話をすることが一番楽しいですね、いろいろ教えてもらえますから。現在は以前ほど忙しくはないですが、自分のペースでやっています。お好み焼のコツは、「心を込めて」です。雑誌やテレビで紹介されたこともあって、遠方からわざわざ訪ねて来られることもあります。以前、店の隣に広島工業大学付属高校の寮がありまして、その学生が毎日のように来てくれていましだが、その卒業生たちが時々「ただいま」と来てくれます。本当にうれしいですね。お客さんから元気をもらっているので、お好み焼はできる限り続けたいと思っています。
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