お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第6回】チヅル
坂本恵子さん│昭和48年(1973年)創業

取材日:2016年06月01日
お好み焼店は、母の念願だった

昭和48年に父が62歳で亡くなり、母(日下ハツミ)がお好み焼店を始めたのが52歳の時です。その母も3年前、93歳で亡くなりました。88歳の時に坐骨神経痛で入院するまで、元気で店をやっていたのですが、それからちょっと体が弱くなり、しかし退院してからも店には出ていました。母にとっては、父の反対でずっと我慢していた念願の店でした。私の他に兄と姉二人の4人の子供がおり、食べて行くには手っ取り早かったからお好み焼の店にしたのだと思います。しかし母は誰にも習わず、朝5時ごろ起きて毎日練習していました。出来るようになって開店し、その後もお客さんから教えてもらいながら慣れたようです。母の姪の名前を店名にしました。開店からの何年間は店を休んだという記憶はありません。両親の実家の能美に行っても、夕方帰って店を開けていました。「せっかく来てくれたお客さんに迷惑をかけちゃいけない」と言っていつもお客さんのことばかり考えていたんですね。
                                母 日下ハツミさん


店を手伝うのが嫌で仕方がなかった

店を始めた時、私は高校1年生でした。学校から帰って手伝っていましたが、それがすっごく嫌で仕方がなかった。若かったですし、恥ずかしかった。開店当初はお客さんもそれほど来てもらえず暇でしたが、徐々に口コミで忙しくなって、店の外までお客さんに並んで待ってもらっていました。店も3人ぐらいでやっていました。















就職10年目で退職し、お好み焼を手伝うことになった

私は学校を卒業した後、広島市内の会社に就職しました。23歳で結婚をした後、切りのいい就職10年目に会社を退職しました。丁度その頃、姉に女の子が生まれ、勤め先の幼稚園の先生に復職したので、その時子供がいなかった私は、姪の世話をしながらお好み焼を手伝うことにしました。それがお好み焼店をするきっかけです。その後、結婚後8年目で主人とそっくりな男の子が生まれました。48時間の難産でしたが、旦那は喜びましたね。開店した時の店は建物も古かったので、3年前の12月、前の店から20mほど東の今の店に移転しました。鉄板だけは開店当初のままです。






















                               移転前の店舗(写真上)と現店舗(写真下)



今は主人と二人暮らし。ビールが大好き

5年前、ロックバンド SOPHIAの松岡さんが来てくれて、それ以来、広島公演の時は寄ってくれます。松岡さんのおばあさんが岩国におられ、お好み焼をおばあさんのために持って帰られたこともありました、パネルは松岡さんが送ってくれました。息子は今、東京にいるので旦那と二人生活。店が終わって帰り、それから食事の支度をするのでとにかく忙しい。ビールが大好きなので帰ってまずはビールを一杯。だから太るので、休みの日にはジムに行っています。最大の体重から16キロやせました。今は少し戻っていますが、これからも元気で頑張ってお好み焼を焼いていこうと思います。

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