お好み焼きの歴史と未来お好み焼きの語り部

お好み焼きを国民食とした先駆者の方々に伺う。 お好み焼の語り部 広島県内各地のお好み焼店をまわり、歴史を辿る

【第17回】お好み焼 ちあき
藤本公子さん│昭和44年(1969年)創業 (昭和49年~昭和63年 休業)

取材日:2017年03月30日
子どもの世話をしながらお好み焼をすることに自信があった。

主人は東洋工業(現マツダ)に勤めていて、それまで一度も働いたことはなかったです。長女の2歳の時に子供を見ながらできると思い、昭和44年、27歳の時、当時住んでいた南区東雲3丁目で、元焼肉屋さんの店舗を借りて一人で開業しました。保育所に預けるより自分で世話をしながらお好み焼をやっていくことに自信はありましたね。店名も長女の名前で「ちあき」としました。父の友達が観音町でお好み焼店をやっていて、父に連れて行かれ、それを見てお好み焼だったらできると思いました。他の飲食業はとてもできません。その店で、粉の溶き具合は教えてもらいましたが、練習は迷惑をかけるのでしませんでした。それだけで始めたんですが、お好み焼をなめていたわけじゃぁないんですよ。しかし、初めはお客さんの前でぐちゃぐちゃになって、まるで焼そばのようでしたね。若かったから出来たと思います。そこで6年営業をしたときに長男が生まれることになり、主人から子どものために家にいてくれといわれて店をやめました。その時住まいも海田に引っ越しました。店は繁盛していたので残念でしたね。それからは専業主婦でした。














14年やめていたお好み焼を、長男が中学生になった時に始めた。

長男が中学に入った時、どうしてもお好み焼をしたくなって、近くの不動産屋さんを訪ねたんです。そしてこの店を紹介してもらい、大家さんにもお好み焼を賛成してもらいまた店を始めました。昭和63年6月18日のことで、この店は今年で30年になります。娘は就職して銀行に勤めていましたが、結婚して子どもができるまで休みの日は手伝ってくれていました。息子は小さいころから野球をしていたので手伝うことはなかったですね。高校3年の野球の合宿の時に、袋いっぱいにお好み焼を入れて差し入れをしました。その時はみんなものすごく喜んでくれました。それまではお好み焼をやっていることは内緒にしていたんですね。2歳年上の主人は、65歳で退職して今は朝の仕入れや土日の忙しいときに手伝ってくれています。主人は手作りで細工をすることが好きで、この電話の看板も作ってくれたんですよ。これは娘の結納の時の三方の裏なんです。娘も50歳になったし、もうよかろうとその台を使いました。その他の壁に飾ってあるものは、全てお客さんからのもらい物です。この額付きの写真も九州からよく来てくれるお客さんが持ってきてくれました。

                            結納の三方の台を使った表示


お客さんからの贈り物             九州のお客さんからの贈り物


トレードマークの鉢巻きで、これからも楽しくお好み焼を焼きます。

休みの日には娘と一緒に出掛けて買い物をしたり、食事をしたりしています。主人はスポーツクラブで卓球やグランドゴルフが忙しく、一緒に出掛けることはあまりないですね。土曜日の夜は、娘や息子たち家族と一緒に再々食事に出かけています。正月は皆で初詣をして、お盆も皆で泊りがけの海水浴に行くことにしています。今年の夏は小豆島に行くことにしています。旅行にも主人と一緒に北海道、東北など国内ほとんどで行きました。富士山も上ったんですよ。人生楽しくて悔いはないですね。息子のところの小学校4年の孫が、「ばぁば、この店を継ぐけんね」と言ってくれているのですが、それまで頑張らなければいけないですね。元気を出さそうとみんなで頑張れと言ってくれるのでしょう。いまは常連のお客さんといつも楽しく話しができるし、身体が続く限りトレードマークの汗止めのこの鉢巻で頑張ろうと思っています。とにかく根っからお好み焼を焼くことが好きなんですね。


                                トレードマークの鉢巻き姿
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